風が、動いたのが分かった。
茫漠たる世界に、一陣の風が。
そう思った次の刹那には、刀に手を掛けようとした。
しかしそれより半瞬早く、隣の部下が地を蹴っていた。
邪魔なものは、排除する。その感覚しかなかった。
かれが慈しんでいる部下であるとか、他ならぬかれのための怒りゆえ、自分に斬り掛かって来たのだとか。
そんなことは正直どうでもよかった。
ただ、自分に刃を向けて来る。煩わしいと思った。それだけのこと。
副官が手を出さなければ、眼前に白刃が迫れば、或いは斬り伏せていたかもしれない。かの者が事無きを得たのは、ほんの偶然。類稀なるタイミングと言っていい。
(あんたの可愛い秘蔵っ子は、えらいラッキーガールや)
それはそうだろう。あの男の庇護下にあったというだけで、充分に幸運だ。力がない訳ではない、だが、本来ならば戦闘要員ならざる者。かと言って癒しの力を持つのでもない。あの男と同じ、死神の中にあってさえ特殊な力を持つがゆえに、かの者は男の副官足り得た。
――おまえに何が解る?
浮かび掛けた言葉を、笑顔で抹殺した。
(あんたのことなんか、関係ない)
胸の奥深くに仕舞い込んで、二度と浮上して来ないように重石を乗せる。
真実を知るため、みずから危地に身を投じた。途方もないリスクを冒して、それでも「それ」を解き明かす必要が果たしてあるのかどうか。
(隠されてるもんは、隠されてるなりの理由があるんや)
長いものには、巻かれていればいい。
いざ危うくなったら、自分の身くらいは自分で守る。それくらいのことができる者だけが、ここに集っているはずなのだ。筵の下に横たわる現実を敢えて暴こうとするなら、相応の報いが降って来る。それが世の常というものだ。
(分からんあんたやないやろに)
それでも、立ち向かうというあの男の真意を。
かの者は、その意味を解るとでも言うのか。
おそらくは、何も知らされていない。あの男はいつも、禁忌を犯すその時、自分だけに素顔を見せる。やさしげな顔をして、その実、意外と情は薄い。そのあたり似た者同士であると知っていたから、態と剣呑な空気を纏いつかせるまでもなく、自分の内心を具さに見抜いたのはあの男だけだった。そしてあの男の真意もまた、自分だけが気付き得ていると思っていた。
その、筈だった。
なのに。
かの副官は、かれの求めんとしていたものを知っていると言うのだろうか。
自分ですら、手の届かぬ遥か遠くにしか、見遣ることができぬものを。
自分よりよほど、掴み処がない。
似ているようでいて、あの男は時折ひどく無防備な面を晒す。それがまるで自分のせいだとでも言いたげに、哀しげなまなざしを向けて来るのだ。
『帰って来れへんくなっても、知らんで』
そう言った自分に、かれは静かに笑んだ。
義骸に宿り、人界へ降りるという無謀を、どうして止めなかったのかは自分にも分からない。
無事に戻れる保証など、どこにもない。寧ろ息災であれることの方が奇跡なのだろうとは容易に知れる。しかし、男はそんな現況を知らぬでもない筈なのに、凪いだ湖面のごとき瞳を曇らせることはなかった。
『その時は、きみがどうにかしてくれるんだろ?』
――三番隊長殿、と慣れた呼称で窺う言葉は、あいだに「信頼」などという代物は決して在り得ない自分達の関係を、まるで見せつけるように思い知らせるように響いていた。
『どの口で、そんなことを言うんやろかなぁ…』
本当の本当に、想っていることは見せない。
どれだけ心を許していると思っても、それは錯覚でしかない。重ねた夜の分だけ、濃密な闇が真実を覆い隠す。
それでも、砕けた口調は「その」時だけのもの。他に聞くもののない暗がりの中、交わした熱さながらに、ほんの僅かばかり距離を縮めでもしたかのように、気安い言葉を交し合う。
それが礼儀だと思っていた。
否、暗黙の了解というやつか。
『ギン――』
もはやそれ単独で呼ぶものなど、存在しないその名を。
戯れのように、けれどひどく苦しそうな面持ちで唇にのぼらせて、男はやわらかな見慣れた微笑を向けて来る。
『なに?』
髪を掬い取る指先を、軽く払って。
『…いや』
応じるように嫣然と口元を綻ばせれば、藍染は何かを言いたげな表情のまま、風の流れを追うように視線を滑らせた。
あのとき、かれは何を言おうとしていたのか。
確かめるすべは、もうないかもしれない。
(――そんなこと、どうでもええわ)
今となっては、詮無いこと。
いや、おそらくこんな状況でなかったとして、それでもギンはあの男に、なにかを訊こうとは思わなかっただろう。
引き擦り込まれる、闇のなかに。
そこへゆくのは、自分ひとりだけでいい。
何かを欲しいと思ったことはなかった。流されるまま風の過ぎるままに来た。
誰も、欲しくはない。
――そう、思っていた。
◆ ◆
繋ぎ止めることなど、出来ないと知っている。
だから、多くを望んだことはなかった。ただ引き寄せられるままに身を重ねた。
おそらくかれにとっては、自分以外の誰かであってもよかったのだろう。
ただ余計な詮索をせず適度に知恵が回れば、それで充分。
肌が合う、と稀に評しはしたけれど、それすらもどこまでが本意なのか、藍染には量ることができない。
誘ったのは確かにギンの方。しかし、深くのめり込んでゆく自分を嘲るようにさえ、その秀麗な横顔は時として鋭い表情を浮かべる。眇めた目蓋の間から見える、色素の窺えない銀色の虹彩。そこには、決して自分が映りはしないことを知っている。
冗談めいて軽い言葉を投げ掛けて来る時ですら。
白刃にも似た光を弾く髪の間から、心を許したのではないと知れる瞳が、溶かし切ることのできない氷のまなざしを垣間見せる。
(高望みはするな、ということか)
人界に降りるという自分を、止めもせず。
かりそめの死を与える行為にも、さしたる感慨はなさそうに思えた。
(あの会話が、せめてもの餞なのかな)
別れの際、わずかに交わした言葉だけが。
かれもまた自分と同じ、感情のある存在なのだと知らしめてくれた。
『帰って来れへんくなっても、知らんで』
だが、それもまた、ただの戯言なのかもしれない。
それを量るすべは、藍染にはない。
『ギン――』
滅多なことでは呼ばぬその名を、口にした想いをあの男は分かっているだろうか。
(それほど野暮ではないだろう?)
寧ろ機微には聡い。ただそれを、知って知らぬふりをするのが何より得意だ。知らぬふりをして、容易くひとを傷つける。まるでそうすることが、却って贖罪になるとでも言わんばかりに――それはもう熱心に。
(…熱心、というのとも少し違うか)
初めて相見えた時、不思議と邪気など何処にも宿していないように思えた。飄々としたなりで冷酷無比、という風評を覆し、その印象は凛として清冽でさえあった。だが、言葉を交わし身体を重ね、夜を経るごとにそれは千変万化を齎す。静かに組み敷けど力に任せて奪えど、追い込まれているのは自分の方で。すべて手に入れることなど叶わぬと、思い知らされるばかりの日々を諾々と過ごした。
それでも、求めてしまうのは何故なのか。薄闇に煙る空のようなその存在は、杳として捕えることができない。けれどほんのささやかな間隙を突いて、不意にすとんと腕の中に墜ちて来るのだ。
幾星霜もの昔から、定められているかのごとく。
衒いもなく自然な仕草で、口づけをねだるように誘う。
(おまえの本心は、どこにある?)
そう問うことは、許されないのだろうか。惑いも苦しみもなく、在るがまま流れるままに、過ごしているだけなのか。
「やっぱり、ほんまに行くんや?」
唐突に声を掛けられて、戸口を振り返る。確かめるまでもなく、つい今し方思い描いていたそのひとの姿があった。
「その言い草はないだろう」
眉をひそめて、咎めるように。そもそも、お膳立てしたのはこの男だというのに。
けれど、本当は少しでもかれが心に留めていてくれたことを嬉しく感じている。言葉には出さない、多分かれには分からない。何故、藍染が真実を欲しがるのか。
(わたし達の存在の意味そのものが、或いは…)
自分がここに居ることの意義を、考えたことがないと言ったら嘘だ。
そしてそれは、自分だけでなく、かれが何故ここに居るのかということでもある。
(だから、知りたいんだ)
何のために、今ここで。
起こっていることにはすべて意味がある。
それを解く鍵は、人界にある。この世界を追われたあの男が、持っている筈だ。だからそのためには、ここを出なければならない。
そんなことはきっと、ギンにも分かっているのだろうに。
「そこまでして、知りたいもんなんかなぁ」
そう、なのだ。
かれにはおよそ執着と名のつく感情が欠けている気がする。
それ故に恐らく、藍染がここまで拘る訳が理解できない。
かれはただ、興味がないだけなのだ。
「僕達のような立場の者が、見過ごす訳に行かないだろう?」
少しの真実と、残り大半はおためごかしの答えを口にする。するとギンは小さく息をつき、肩を竦めた。一歩を踏み込み、自らが用立てたこの隠れ家に、するりと滑り込んで来る。
「珍しく建設的やないですか」
自分相手にいつも、非建設的かつ非生産的行為ばかりを仕掛けるくせに――とでも言いたいらしい。く、と咽喉の奥でくぐもった笑い声が、かすかに響いた。
「ギン」
そのことを、恥じるつもりも疚しく思う気持ちもない。報われぬ心をどれだけ隠し果せればいいのかと、その、灯りひとつもない未来に眩暈をおぼえるだけで。
ただの戯れ、それ以上でもそれ以下でもない。
そう言い聞かせていなければ、かれは手の中から擦り抜けて行ってしまいそうで。
「…なんですの」
不機嫌さを隠そうともしない口調で、長い前髪の間からちらりと見上げて来る。鋭利な刃物の色をした瞳は、胡乱げに藍染を捉える。
怯むほどのしおらしさは、持ち合わせては居ない。その程度にふてぶてしい自分を、この男は少なくとも見抜いている。
(これが、最後かもしれない)
そう、思った。
考えてはならないはずのことだが、その可能性が高いことは事実だ。
だから、なのかもしれない。墨染めの衣から伸びる、白い手首を掴んだ。軽く力を込めて引き寄せれば、抵抗なく骨ばった身体が腕の中に倒れ込んで来る。
「――…」
物言いたげな視線には、応えない。
代わりに、掴んだ手を持ち上げて、関節の浮き上がったその甲に唇を落とす。
「…えらいまた、ロマンチックなことを」
苦笑交じりの呟きにも、手は離さなかった。だが、揶揄の言葉をどんな気持ちでこの男が発したのか、焦がれるほどにひどく知りたいと思った。
「いけないか?」
「別に」
間を置かず、掠れた低い声が返る。
そうしてしばらくギンは、藍染の口づけた自らの手を凝視めていたが、ややあっておもむろにそれを、自分の胸元に取り戻した。
そして、顔を近寄せ、唇を押しあてる。
藍染の口づけた、その場所に。
後を追うように、いとおしむように、そっと触れる。
(――っ…)
まるでらしからぬその所業に、けれどこの上もなくらしすぎるその所作に、胸を衝かれた。握り締めたもう片方の手を開き、ギンの背に回す。
「なんですか?」
やわらかな声音、独特のトーンで窺う言葉。
その次に来るものを、知らぬはずはない。尖った頤に指を掛ける、それだけでギンは誘うように目を伏せ、伸ばした腕を藍染の首に絡めた。
重なる吐息。
静かに貪るそれは、やがて交じり合い溶け合い。
どちらのものとも分からないほどに熱く、たそがれゆく空を覆い始める闇に、紛れては消える。
それが合図であったかのように、深い夜色の衣に包まれた身体に自らの重みを預けた。
(帰って来て欲しい、なんて言わなくていいから)
――せめて、今だけ。
こぼれ掛けた言葉を、呑み込んで。
受け止めるぬくもりだけを、感じて。
清けき風が、幽かな音を立てて樹々の葉を揺らす。
開け放たれた窓越し聞こえて来るそれは、胸の奥深いところを軋ませた。
見上げる、しろがね色の瞳。
その瞳を覆う薄い目蓋に、藍染は数え切れない口づけを降らせ続ける。
――吹き抜ける風は、冷たい。
了
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