二月半ばの土曜日、土屋が大阪からやって来た。
来月から下宿する都内のマンションを見に行く約束なのだが、押し切られて「ルームシェアをする」という提案を受け容れてしまったことを、三井はちょっとばかり後悔していた。
「はいこれ、おみやげ」
昼過ぎに品川まで出迎えて、顔を合わせた瞬間に小さな紙袋を手渡される。よく見知ったその袋は、三井が最近ひいきにしているショコラティエのものだ。
「おっ、すげぇじゃん」
思わず感嘆の声を上げた。しかし、いきなり何でチョコレートなのだ。そう訊こうとしたのだが、続く言葉で遮られた。
「三井、好きやったやろ?」
にっこり微笑んで、首を傾げて問い掛ける。まるで邪気のなさそうな表情。その瞬間、分かりたくもない土屋の意図が、パッと分かってしまった。この綺麗な笑みの後ろに隠されている腹黒い一面を知ってしまっては、素直に見惚れることも出来ない。
「いやまぁ…好きだけどよ…」
途端に声に覇気がなくなるのを、自分でも感じた。もちろん、大好きなものをもらって嬉しくない訳がないのだが、「ありがとう」だけで済むのだろうか、と不安がよぎったのだ。
「あ、別に『友チョコ』とかとちゃうで?」
時期も時期だし、一体どういう理由で、土屋がみやげにこれを選んだのかは明白だ。
今の台詞だけを聞けば、単に三井の好物だから買って来たのだと思われるだろう。だが、土屋が言いたいのはそんなことではないことくらい分かる。そもそも「友チョコ」というのは、女が女友達にやるものだ。そんな常識的なツッコミは、今更しても無駄だろう。
「…『本命』とか言うなよ?」
ぼそりと呟いた言葉は、新幹線が走り去る轟音に掻き消された。周囲の乗客はほとんど乗り換え口に向かってしまっていたから、恥ずかしさは少しだけマシだった。しかし、不幸にもそれは、土屋の耳には届いたようだった。
「なんでぇ。ほんまのことやん」
コイビト同士やねんから。
そう言ってムッとした顔をしながらも、寒そうに肩を竦めて身を寄せて来た。あまりくっつかれるのもウザいのだが、言い過ぎると逆効果だ、というのはこの半年ほどで学んだ。
「だから、そーいう単語を口にすんなっつーの」
「三井は照れ屋さんやなぁ」
「…――」
しれっと告げる土屋を睨みつけて、さっさとエスカレーターに足を向ける。それでも、おざなりにモゴモゴと礼を言って、土屋の手から紙袋を奪い取ることだけは忘れない。
何せ、三井が最近いちばんお気に入りのショコラティエは、味ももちろんだが値が張ることでも有名だ。それでも、女子の間では極めて人気が高く、バレンタイン限定のものは、早々に売切れてしまったと聞いた。
そして、袋の中を覗けば、土屋が持って来たのはくだんのバレンタイン限定ボックスなのである。
(でもよぉ)
土屋が口走った単語は、間違いではない。たぶん。
だが、時と場合というものがあるワケで、土屋はそういう空気を、あえて読まずに居るようなところがある。
そして、そう気がついたのは、残念なことに土屋が言った通りの仲になってしまってからだった。
「会いたかったのに」
在来線の改札をくぐったところで、掠めるような小さな囁きが耳をくすぐった。
夏に出会って、押し切られるように付き合い始めて、いつの間にやら同じ大学に通うことにまでなっていた。そして、「一緒に住みたい」という提案を、丸め込まれるようにして受け容れた。
そこに自分の意思がなかった、なんてことを言うつもりはないけれど。
どうにも土屋のペースにはまっている、という事実が腹立たしいのだ。
「別に…会いたくなかったとか言ってねぇし」
距離も離れているし、練習もあったし、金もないしで、月に一回会うのが精一杯。だから、三井とて会いたくなかったはずはないのだが、素直に認めるのも悔しい。その気持ちが邪魔をして、あえてむすりとした表情のまま言ってやった。それでも途端に、土屋の瞳が嬉しそうにきらめくのが分かる。
(こーいうトコもさぁ)
一緒に居ると、恥ずかしすぎるのだ。パッと見クールな風に思えるし、ルックスもいいから目立つ。そんなヤツにこうもあからさまに振る舞われると、どうにもいたたまれなくて困る。
(そりゃ、嫌なワケじゃねぇんだけど)
もうちょっと気を遣え、と言いたくなるのは仕方のないことで。
「三井からは?」
しかし、不機嫌をにじませている三井に、土屋は気にした風もなく話しかけて来る。確かに、同じ目的で同じ行動を取っているのだから、話をするのもごく当然の成り行きだ。だが、今こいつが口にしているのは、まるでその目的とは関係のないことだった。
「…あァ?」
「三井からは、俺にチョコくれへんの?」
案の定、と言うべきか、こんなことを土屋は言いやがる。
「俺が? 何でおまえに?」
「だってコイ…」
「だからそーいうコト言うなって」
またしても「コイビト同士」と言いかけたのだろう。それを敏感に察知して遮った。土屋はちょっと拗ねたような顔になって、じっとこちらを見る。
(だって、人居るし!)
電車を待つホームには、まばらだが人影がない訳ではない。いずれも少し離れた場所だが、話し声がまったく聞こえないという距離ではないだろう。しかも、このまま話を続けていれば、電車に乗ってからもこの調子であることは間違いない。
「なぁ、なんで?」
しばらく黙っていたかと思ったら、今度は逆に問い返される。不穏な単語を発することは、諦めたのだろうか。
「何でって…あんなの菓子屋の戦略だろ…」
苦し紛れに言ってみた。自分でも強引な言い訳だと分かってはいるけれど。
そもそも、チョコをはじめとする甘いものが、三井はかなり好きである。そして、これまで普通にそこそこ、知らない女子たちからもバレンタインにもらった経験もある。もらえない男が使うような言い訳なんて、無理があるのは承知の上だ。
「ほんならおまえ、義理も誰からももろてへんの?」
「…――」
だから、予想通りのツッコミにも反論できなかった。
登校日だった昨日のうちに、すでに何人かからもらっているのを知られているはずもないけれど。
(でも、一応「本命」って渡されたのは、ちゃんと断ったんだからな…)
三井にとっては高校最後のバレンタインだった。いくつかもらった義理以外にも、二人ほどから告白つきで渡されそうになったのを、それだけはちゃんと「他校につきあっているヤツが居る」と断ったのだ。しかしもちろん、そんなことを言えば、調子に乗らせてしまいそうだから教えてやらない。
「もろてんねやったら、その理由はナシやろー」
口を尖らせながらも、本気で怒っている様子ではない。ただ拗ねているだけなのだろうと分かった。三井にしても、やましさはそれほどない。だから、強気で返すことが出来た。
「うっせーよ! ほら、電車来んだろ。晩飯くらいならおごってやっから、文句言うなって!」
とりあえずは、電車の中で黙らせておくのが当面の最重要事項だ。そう思って背中を叩けば、土屋はわざとらしく「いたいなぁもー」と顔をしかめてみせる。しかし、それ以上ヤバいことを言いそうな様子ではなかったので、心の中でホッと息をついた。
(今日はウチ誰も居ねぇし、外で食ってけばいいもんな)
すでに住む物件自体は決めていて、あとは契約するだけというところまで来ている。不動産屋は三井の親戚の知り合いで、保証人には父親がなってくれることに決まっている。余分な家賃がかかるから、契約は来月に入ってからだそうだが「もう一度、じっくり部屋の様子や近所の店なんかを見ておきたい」と土屋が言ったのだ。どうせ、今日もいつものように三井の家に泊まるのだろうし、帰りにファミレスでも寄って行けばいいだろう。
(つーか、まさかわざわざバレンタインのために、この日程にしたんじゃねぇだろーな)
三井がチョコ好きだというのは、土屋もよく知っている。そして、土屋は意外とイベントごとが好きで、もしかしたら三井にチョコレートを渡したいがために、わざわざ中途半端な時期に、あえてこんな予定を入れたのかもしれない。
(こいつなら、あり得るかも…)
そう思いはしたが、だからと言ってこちらからもやる、というのは何だか負けたような気がして嫌だった。
百歩譲って「三月にお返しをくれ」と言われたなら考えないでもないが、「逆チョコ」だの何だのが流行っているとは言っても、三井にとってバレンタインというのは、あくまで「もらう日」であって「あげる日」ではないのだ。
(だから、これはもらっといてやるけどよ…)
声に出さずに呟いて、視線を紙袋の中に落とす。渋めの赤で彩られた箱は、ずっしり重い。
知らず顔がにやけそうになるのは、それでも絶対に土屋に悟られてはならない。
(だってさ、ここのが気に入ってるって、言ったの一回だけなんだぜ?)
それも随分前の話だ。たまたま一緒に寄ったコンビニで立ち読みした雑誌に、記事が載っていただけなのだ。
そんなことを覚えてくれていたというのは、確かに嬉しいものだ。だが、くすぐったい気持ちや、照れもある。それに何より、自分は土屋のそういう「お気に入り」めいたものを、ほとんど知らない。チョコをせがむくらいだから、甘いものは好きなのだろう、と思う程度で、こんな気遣いは自分には出来ないと思うと、申し訳ないやら悔しいやらで、やっぱり素直には喜べなかった。
「どないした? 俺の顔になんかついてる?」
知らず、じっと見つめてしまっていたらしい。降りる直前に、土屋はこんなことを言った。慌てて目を逸らせば、くす、と小さく笑うのが聞こえる。
「べっつに」
「なんや、見惚れてくれてんのか思て、ちょっと嬉しかったのに」
振り向けば、にやりといつもの不敵な笑み。
「あるわけねーだろバカ」
むすりと返せば、土屋はそれでも楽しそうで。
割と近い線だった、というのも相まって、頬に血が上るのが分かった。
だが、それでも三井は必死で唇を引き結び、不機嫌な表情を作った。
(別に…チョコじゃなくたっていいじゃんよ…)
バレンタインに、チョコレートでなければならない、という理由はない。
気持ちの伝わるものならば、本当は何だっていいはずなのだ。
その時の三井は、確かにそう思っていた。
決して意地を張っているワケではないと、自分では信じていた。
◆ ◆
下見はスムーズに終わって、三井の家に向かう道すがら。
電車の中で、隣に立つ三井の横顔を見詰めながら、土屋は心の中でため息をついた。
(まだ先は長いなぁ…)
喜んでくれているのは分かった。だが、三井からもらいたい、というのは高望みに過ぎるのだろう、ということも、同時に分かってしまった。
(気持ちは通じてる…て思うけど)
一応それなりに、「深い仲」である。
情が深くて流されやすい三井が、最初は土屋の勢いに押されて、受け容れてくれたのではないかと思っていた。しかし、何度か逢瀬を重ねて、実はそればかりでもない、ということに気づいて、少しはホッとしたのだけれど。
(そら、来月からは一緒に住めるけど)
四月から同じ大学でもある。学部は違うが、バスケ部に所属している。来月下旬からはすでに練習も始まるし、一緒に居る時間は格段に長くなる。
そんなことは分かっていても、「今、もっと近づきたい」という気持ちは抑えきれない。だからこうして口実を作って、会いに来たというのに。
(俺が好きて思うほどには、三井は思てくれてへんのかなぁ)
照れ屋だと知っている。正直者なくせに、ときどきひどく天邪鬼なのも。だから三井の言葉や態度は、表に現れている部分だけでは図れない。頭ではそう理解していても、もう少し何かの意思表示が欲しいと思ってしまうのは贅沢なのだろうか。
「晩飯、駅前のファミレスでいいか?」
そんなことを考えていたら、振り向いた三井が訊いた。
(そういや、おごってくれるとか言うとったっけ)
今までも、お互い行き来した時は、家に泊めてもらっていた。母親の手料理をご馳走になっていたのだが、今日は外で食べるという意味なのだろう。
「あーまぁ…」
何気なく曖昧に応えたけれど、頷きかけてやめた。
「何か食いたいモンあんのか? だったらそこでもいいぜ」
歯切れの悪い答えだと、三井にも感じられたのだろう。かすかに眉を寄せ、首を傾げる。ちょっと足を伸ばして、中華街あたりでめちゃくちゃ高価なものをおごらせる、というのも考えたけれど、さすがに可哀想なので脳内で却下。
「…それより、俺はチョコがええなー」
わずかの間にあれこれ考えても、いい手は思い浮かばない。だが、素直におごってもらうのも何となく気が引けて、つい本音を口にしてしまった。
食事をおごってもらうより、バレンタインのチョコレートが三井から欲しい。
さっきの様子だと、三井はちゃっかり女から義理チョコをもらっているようなのだ。本命も含めて、すべて断った土屋とは違う。
「チョコ? 晩飯に?」
しかし、三井は何を勘違いしたのか、そんなことを口走った。思わずぷっと噴き出して、ぺしりと肩をはたく。
「んなワケあるかい。帰りにおみやげに欲しいなー、て思ただけや」
こう続ければ、意図は伝わったらしい。わずかに照れたような色が目元に浮かんだけれど、そのまま睨まれた。
「まーたそういうコト言う…」
「ええやん、チョコぐらい。晩飯より安いやろが」
周りに聞こえるのを嫌がって、三井は声を潜めている。そんな必要なんてない、と思いながらも、土屋も低めた声で囁き返した。
「けどよぉ」
「おまえからバレンタインにもらう、っちゅーんが重要やのに」
もう少し強く押した方がいいだろうか。実のところそう思っていた。
だが、ぶすくれた顔が焦らしているようにも感じられて、ちょっとムッとしたのも事実。
(押してあかんかったら、引いてみよか)
今まで、三井相手に余裕なんてなくて、策を弄したことはない。
いや、まったくなかったとは言い切れないが、駆け引きなんてするだけ無駄だと、いつも思い知らされるのだ。
だが、それでもだいぶモヤモヤしていたことは否めない。たかがチョコレートだと言われるかもしれないが、土屋にとっては「三井から、特別なイベントごとにまつわるものをもらう」というのが大事なのだ。
だから、こんな風に言った。
本当の本心とは、少し違う言葉を。
「やっぱ今日、帰るわ」
「え?」
唐突な土屋の言葉に、三井はきょとんと目を瞬いた。しかし、軽く肩を竦めて息をつき、土屋は続ける。
「こっからやったら、品川より新横のが近いやんな。どうせまた来月来るし」
ようやく、土屋の言わんとすることが分かったのだろう。戸惑ったような瞳がこちらを見る。
「泊まってくんじゃねぇのか?」
「うん、まー色々用事もあるし」
そんなのは出任せだ。こう言えば、少しくらい引き止めてくれるかと思ったというのもある。
(別に、拗ねてるワケでもないんやけど)
そう取られても仕方ないかもしれない。
しかし、引き止められないにしても、少しは残念そうな顔をされるかと思ったのだが、どうもそうではないらしい。しばらく何かを考えていたような間があって、三井は「ふーん」と生返事を寄越した。
(ふーん、て何やねん)
あまりに素っ気なさすぎる。さすがにそれには、土屋もムカついた。とはいえ、きっかけを作ってしまったのは他ならぬ自分だ。
(けど、なんやさっき、一瞬だけ怒った顔せぇへんかったか?)
ほんの一瞬のことだから、見間違いかもしれない。大体三井はそんな顔をしたら、すぐ火がついたように怒り出すものだ。
(なんやってんやろ)
考えてもよく分からない。しかし「残念がっている」というのとは、違っていた気がする。
「メシは今度おごってぇや」
だからとりあえず、それだけを言う。ほんまはチョコの方が良かってんけど、と付け加えるのも忘れない。
「へーへー、今度な」
不機嫌なのか、それとも気にしていないのか、いまひとつ分からなかった。いや、もしかすると、土屋と言い合いをすること自体を、アホくさいと思ったのだろうか。
(そうなんやろか)
土屋としては、くだらない言い合いも、三井となら楽しいと思っている。ほとんど一方的につついているだけだが、時々びっくりするような反撃がやって来る。それは土屋にも予測が出来なくて、しばしば固まらさせられる。だが三井にとっては、そんなのはただの徒労だったのだろうか。
(そんなコト、ないやんな)
腕を取って引き寄せて、そう訊いてみたい。
だが、珍しく内心の読めない三井には、こんなことすら訊くのが怖かった。
(せやなかったら、単なる気まぐれ?)
三井は感情豊かだが、そういう面はあまりないと思っていた。しかしまだ、土屋も理解できていない部分があるのかもしれない。
そうこうしているうちに、電車は新横浜に着いた。まだ最終にはだいぶ時間があるが、土曜の夜だというのに、新幹線のホームはガラガラだ。
(せやけど、やっぱ何やちょっと不機嫌そうな気もするし)
三井の様子を窺えば、ちらりと視線を向けて来た。しかし、にこりともせず、かといって睨むでもなく、じっとこちらを見ている。
(何か言いたいんかなぁ)
そんな気がしなくもない。
もしかして、いっそ別れようだなんて言われるのではないか。そんな想像までしながらも、土屋はずんずんとホームを端に向かって歩いた。三井は黙って後をついて来る。
「どこらへん、乗んだ?」
かなり長い沈黙を挟んで、三井が口にしたのはこんな言葉。
自由席は1両目から3両目のはずだ。そろそろ3両目に差し掛かるあたりでそう返せば、また黙ったまま、三井は後ろを振り返った。
「三井?」
「ちょっと待ってろ。晩飯、買って来てやっから」
訝しむ土屋をよそに、それだけ言って売店の方へと走り出す。
「えっ…ちょ、三井!」
一体どうしたんだ、と問う間もなく、後ろ姿は店の中へと消えた。発車の時刻が迫っているらしく、激しいベルが鳴り響いた。
(次のんにしよか)
帰ると言い出してはみたものの、未練たらたらなのは隠しようもない。このまま三井が戻って来ないのなら、次の列車まで待とう。
そう心に決めたのに、果たしてすぐに三井は現れた。焦ったような顔で、土屋のところまでダッシュして来る。
「これ、食って帰れよ!」
怒ったような、荒っぽい口調。行動とは裏腹に、心なしかムッとしたような表情。
軽く息が上がっている。よほど急いだのだろうか。ガサゴソと音がするビニールの中からは、黄色っぽい箱の弁当らしきものが覗いていた。
「三井」
「もー、いいからさっさと帰れ! ほら、発車するし!」
あまりの勢いに、返す言葉が見つからない。そのまま近くのドアに押し込まれてしまう。
「おい、三井っ」
土屋が車内に転げ込むと同時に、ベルが鳴り終わった。すぐドアが閉まって、三井との間はガラスに隔てられる。
とっさに降りようとしたが、叶わなかった。品川や東京からとは違って、途中で降りようにも名古屋まで停車駅はない。
(…何やねん…っ)
やっぱり、勝手な言い分に怒っていたのだろうか。それにしてもあんまりだ。怒っているなら怒っているで、何故黙ったままだったのか。せめて何か言ってくれればいいのに。
思わず、窓ガラスを叩きそうになる。しかし、無視して立ち去るのかと思っていたが、意外にも三井は、こっちに向かって思い切り顔をしかめてみせていた。
(え、)
口を大きく横に開き、歯をむき出して「いーっだ!」と言わんばかりの表情。
あまりにも力一杯な感じがにじみ出すぎて、つい脱力とともに笑ってしまった。
「…アホやん…」
けれど、激しい感情が、そこには表れている。
怒りだとか苛立ちだとか、それは多分マイナスの感情だ。
それなのに、気持ちをあらわにした三井の顔を見たら、ひどくホッとした。極端すぎる表情なのに、可愛いとすら思った。そしてホームも三井の姿も見えなくなったと同時に、ポケットの携帯がブルブルと震える。
(三井?)
外のディスプレイを見ると、三井からのメールだった。 慌てて画面を開いて、その文面を読む。
『神奈川が誇るシウマイ弁当だからな! 心して食えよ!』
(それだけかい!)
心の中でツッコミを入れ、またしても脱力で座り込みそうになる。さっきの顔からして怒っているのはまず間違いないが、それでも言わずにはおれなかったということか。
(いや、でも…てことは…)
少なくとも、絶望的な状況ではない、と思っていいのか。
もちろん、飯をおごる、と言った手前もあったのだろう。妙なところで律儀なのが三井だ。しかしとりあえず、このまま振られてしまう、という展開はなさそうだ。
三井の言葉どおり、袋の中に入っているのは、新横浜駅のきわめて有名な駅弁だった。前に551の豚まんを食わせた時に、これと張り合うくらい旨い、と三井が言っていたのを思い出す。怒っていたにもかかわらず、土屋が三井にそれを食べさせたかったのと同じように、三井も土屋にこれを食べさせたいと思ってくれたのかもしれない。
(…なんや、お互い変に意地張ってもうたんかなぁ)
駆け引きめいたことをしようとして、失敗した。おそらく三井もそれに勘付いて、ムッとしたのを隠したのだろう。
(でも、仲直りはできるやんな?)
一応ちゃんとメールをして来てくれるあたり、あの盛大な「いーっだ!」で発散しきったのかもしれない。あいつが家に着いた頃に、礼と侘びの電話でも入れれば、何とか宥められるだろうか。
(ほなまぁ、弁当でも食おか)
少しホッとしたせいか、腹が減っているのを思い出す。せっかくだからせいぜい味わって食おうと、中に入って手近な席に腰を下ろした。
(来月、また会えるし)
月初には契約をして、半ばに卒業式が済んだらすぐ引越しだ。あとひと月も待たずに会えるのだから、ここでヘコんでいてもしょうがない。本当は今すぐにでもまた会いたいのだが、そう自分に強く言い聞かせて、袋から弁当を取り出した。
(お茶、買うた方がええなぁ)
ワゴン販売はまだ来ないだろうか。さすがにお茶まで買ってくれてはいないだろう。そんなことを考えながら、袋の中を覗いたら、ころん、と何かが手の中に転がり出て来た。
「ん?」
思わず、声に出して呟く。厚さ2センチ、直径5センチほどの、セロファンで包まれた薄茶色の塊。
丸っこくて厚みのあるルックスには、なんとなく見覚えがある。中華風の饅頭のようなもので、確か「月餅」とか言ったはずだ。
(ふーん、おまけか)
デザートという訳ではないだろうが、ついでに買ってくれたらしい。しかし、ひとつでも結構ボリュームがありそうで、弁当と一緒に食べれば、それなりに満腹になりそうだ。
(後で食べよ)
そう思ったのに、つい手にしたラッピングを開けてしまった。
ぺりぺりとセロファンを剥がして、中の薄茶色を指で摘む。
そして、指先に力を入れ、半分に割った。
「あれ…?」
予想していた、ぎっしり餡子の詰まったような色ではない。小豆色とは明らかに違う、割と最近よく見ていたような、もっと深い焦茶色。
(…チョコレート?)
どう見ても、これはその色だ。
顔を近づけて匂いをかげば、香ばしいカカオのそれだった。
袋に入れたセロファンをもう一度取り出し、裏面のあたりを見た。丸いシールに書かれている商品情報は、土屋の推測を裏付けていた。
『横濱月餅 チョコ&チョコ (冬季限定)』
そこには、確かにそんな文字が。
そして、「期間限定」というのが、「何」の期間をターゲットにした「限定」なのかは考えずとも分かる。
(普通、こーいうんて、棚にPOPとか飾ってあるよな)
思考が、目まぐるしく回転し始めた。どこに陳列されているかは知らないが、確たるターゲットがある限り、それをアピールしないはずはない。そして、いくら急いでいたとしても、いや、急いでいたからこそ、「わざわざ」それをおまけに買うという行為が、単なる偶然であったはずがない。
(…そう思て、ええんやな?)
辿り着いたのは、ひとつの結論。
仮説ではない。勝手に自分の中ではそう決めた。
緩む口元を隠しもせず、半分をとりあえず口の中に放り込む。
(あぁ…旨いわ)
弁当への期待を更に高めるくらいには、深みのある味わいだった。ただ甘いだけでなく、どこかほろ苦くて、そのくせ丸みのある風味。さすがは老舗、と言えるほどのものだ。
何よりも、三井が土屋のために、買ってくれたというのが嬉しい。残る半分も口の中に入れて、むぐむぐと全部飲み込んだ。
「はー」
にやけた顔が、元に戻らなさそうだ。そんなことを思う。 そして弁当を開ける前に、携帯を取り出した。
『チョコレート、ありがと』
それだけを入力して三井に送信。
ほどなくやって来た返事は、土屋の口元をますます緩ませる。
『デカい男が、ちっせーコトにこだわんなっつーの!』
そんなものやった覚えはない、としらばっくれられるかと思っていた。だが、三井は否定しなかった。
『わざわざ買うてくれたんや?』
もう、ほとんど分かった。分かっていて、あえて確かめるように送った次のメールには、こんな返信が。
『おまえが拗ねるから、しょーがなく買ってやったんだよっ』
そして「恩に着ろよ」という言葉と、絵文字の「怒り」マークが続けられていた。しかし、見れば見るほど嬉しくて、目を眇めながら何度もその文面を視線でなぞる。
くだらないことで拗ねていると思って、それでムッとしたのだろう。だがそれでも、苛立ちを隠して怒りを抑えて、土屋の希望を叶えてくれたのだ。もしかしたら、感情を押し隠していたようなのは、この企みを悟らせないようにするためかもしれない。
(まぁ、それでも最後にはキレたんやろけど)
慣れないことをすれば、不自然になるのはしょうがない。別れ際、ドアのガラス越しに見たあからさまな顔を思い出す。他の奴らには「百年の恋も冷める」と言われそうな表情だったが、土屋にはなんとも可愛らしく思えた。
「…あかんわ、やっぱ」
誰にともなく呟く。
このまま帰るなんて、やっぱりどうしても出来そうにない。
(名古屋着くん、何時やっけ)
どうにも堪えきれない思いが湧き上がり、土屋は携帯を今度は違う目的に使い始めた。キーを打つのももどかしいけれど、ダイヤ検索のサイトを開き、今乗っている列車が、次の名古屋に到着する時刻を調べる。
(まだ、大丈夫かな)
次いで調べたのは、そこから新横浜に折り返す新幹線。
幸いにも、名古屋で降りて引き返せば、ぎりぎり最終間近で新横浜に戻れそうだった。
(アポなしやけど、泊めてくれるやんな?)
新横浜からの行き方は覚えている。だから、あえて連絡は入れない。突然「やっぱり泊めて」と言ってやって来た土屋を、三井はどんな様子で迎えてくれるだろうか。
(まずは、ちゃんと話しよ)
駆け引きめいたことをしたのを謝って、チョコレート月餅の礼を言って、それからちゃんと、「これからもずっと好きだ」と伝えよう。
本当ならそれは、チョコを渡した時にでも、伝えておかなければならなかったことだ。そうしていれば、土屋のこだわりも、最初から少しは分かってもらえたかもしれないのだ。
(せやんな)
けれど、そんなあれこれはすっ飛ばして、いきなり抱きしめてしまわないという自信はない。その時の三井の顔が見ものだと、ふと思ってしまったのもある。
三井の気持ちも、もっちとゃんと聞きたい。
せっかくの機会なのだから、この後とことん、じっくりと。
唇どころか頬も緩んで、胸の奥にあたたかい波が広がってゆく。
口に残るほろ苦い甘さは、この先も思い出すたび、土屋のなかに、かすかな痛みとどうしようもない愛しさを、運んで来てくれるような気がした。
Das Ende
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