(ルームフレグランスか…)
これなら「引っ越し祝い」にふさわしそうだ。
そうひとりごちて三上は、ディスプレイの瓶を手に取った。
(ちょうどいいよな)
値段も手頃だし、さほど嵩張るものでもない。海をモチーフにしたシリーズなのだろう、ガラスコップのような瓶に、白い貝殻や珊瑚が詰められている。中に混じっている半透明の青い石が、香りの出どころらしい。他にも何パターンかのモチーフがあって、緑の石と木の葉が詰まっている瓶もあった。容器の種類もさまざまで、小さな皿に同じ中身が盛られているものや、メッシュのポーチに入っているものもある。しかし、他はどれも少女趣味な気がする。最初に目に付いたガラス瓶タイプが、いちばんシンプルかつコンパクトでいい感じだった。
(香りも好みに合ってそうだし)
三上のつけているコロンを「いい匂いだ」と言っていた。ということは、こういう系統は嫌いではないのだろう。コロンよりも幾分やわらかな香りなので、嫌いだという者自体、あまり居ないかもしれないが。
「あれ、何? 渋沢に誕生日プレゼント?」
横合いから、窺うように覗き込んで来たのは中西。何を思ったか、三上が買い物に行くと言ったらついて来たのだ。
「ちげーよ」
一瞬どきりとして、それでも必死で平静を装って返す。渋沢の誕生日が一週間後に迫っているということを、教えてくれたのはこの相棒だ。だが、何が悲しくて、いい年をした大人の男が、同性の年上の男に誕生日プレゼントなんてやらなければならないのだ。
(そうだよ、これはあくまで引越し祝いなんだからな)
実家を離れて一人暮らしをしている渋沢が、新しい部屋を借りたのだという。その話を聞いたのが先週で、休みが合えば手伝いにでも行ってやろうかと思ったのだが、生憎仕事が立て込んでいて無理だった。
「つーか、大体何で、おまえがあいつの誕生日なんて知ってんだよ」
「や、この間見た雑誌にたまたまプロフィールが載っててさ」
最近、結構人気みたいよ?とからかうように告げられた言葉は、三上の心の奥底を、ちくりと刺した。
「ふーん」
だが、そんなことを気にしている素振りなんて見せたくない。渋沢本人にももちろんだが、自分と渋沢との仲を気付いている(らしいのだ。困ったことに)相棒にも、下手なことは言えない。さんざんからかわれて遊ばれるのがオチだからだ。ユニットを組んでデビューするよりずっと前から、かれこれ10年近い腐れ縁のおかげで、相手の行動パターンは把握済みだ。
(ってことは、あいつにも何か言ってる可能性高いよな…)
中西のことだから、三上だけをからかって気が済むとは思えない。対する渋沢は、からかわれて落ち込むタマでもない。しかし、何が心配と言って、自分の知らないところでどんな話をされているか分からないのが一番コワい。
あの男は臆面もなく恥ずかしい台詞を平気で吐きやがるし、そんなのを耳にしたこいつが、黙って聞き流すワケがない。とてもじゃないが、素面では聞いていられないような惚気とか、それを面白がって煽り立てるような言葉ばかりの会話がこの世のどこかで交わされていたとして、その「取扱対象」が他ならぬ自分自身だということは、どうにも耐えられない。
(ぜってー、ふたりまとめていつかシメてやるからな)
一応というか何と言うか、世を憚る「恋人」と、仕事でもプライベートでも仲のいい「親友」であるはずなのだが。野放しにしておくと何をしでかすか分からないところが、こいつらにはある。女どもにキャーキャー騒がれている、人気商売の人間だとはとても思えない。
(いや…だからそれより引越し祝いだって)
誕生日と引越し。一週間の間に大きなイベントをふたつも抱えていた割には、先週会った時の渋沢の様子は、いつもと変わらなかったように思う。誕生日はともかく、引越しといえばかなりの大きな行事だと思うのは三上だけなのだろうか。
「前、住んでた部屋が手狭になったから引っ越したんだとさ。だから引越し祝いでもやろうかと思って」
祖父も父親も歌舞伎役者である、「渋沢家」は和風の大豪邸だ。何度か尋ねたことのある一人住まいの部屋は、広さの割にシンプルで、とても「手狭」というイメージではなかった。だが、実家に比べればどうしても狭く感じられるというのは、仕方ないことかもしれない。
(まぁ、オレらとは感覚が違うんだろうからな)
三上とてアイドルである。だが、今も住んでいるのはマンションタイプの事務所の寮だし、さほど豪勢な生活というものを体験したことがない。同年代のヤツらは、まだ学生も多い。その中では稼いでいる方に入るのだろうが、仕事が忙しくて無駄使いするヒマもない。
「へぇ、引越しねぇ」
「ああ。これなら値段もちょうどよさそうだろ。実用品もいいんだけど、使い勝手とかこだわりそうだしな」
どういうものがいいか見当がつかなかった。だから実は、結構考え込んでいた。そんな時にふと、自分のコロンを切らしていたことを思い出し、買いに入った輸入雑貨屋で、それと同じ香りのルームフレグランスを見つけたのだ。
「あ、これウルトラマリンか」
中西も気付いたらしい。甘すぎず軽すぎず、さっぱりとした中にほどよくピリッと芯のある香りが気に入って使っているものだ。
「そ。あいつコロンとかつけねぇらしいけど、これはいい匂いだつってたし」
実家に帰れば、着物など着るそうで、その時には否応なく箪笥に入れてある香り袋の匂いがするらしい。しかし、いかな渋沢といえど普段着は普通の洋服で、和風の香りはあまり好みではないのだとか。
「……へーぇ……」
何かを言いたげに、しかし中西はそこで黙ってしまった。
「ンだよ?」
不審に思って突付いたけれど、返事は返って来ない。
だが、色々考えた末にようやく思いついた名案なのだ。三上の頭の中では、もうすっかりこれを引越し祝いに買うということが、「既定の事実」になりつつあった。とは言え、自分では気付かない難点があるのかもしれない。
「いや、別に」
そう答えながらも、中西はまだ何か言いたそうにしている。
「なんかマズいか?」
「や、別にいーんじゃね? 渋沢っつーと和風っぽいイメージがあったから、ちょっと意外だったんだけどさ」
言われて、ああそういうことか、と納得する。三上も最初はそう思っていたから、誰もが渋沢に抱くイメージというのは似通っているのだろうか。
(でもまぁ、今はそうでもないか)
和風というのはともかくとして、出逢った頃の印象とは、ずいぶん違う。おっとりとして穏やかそうで、出来た人間だというのが第一印象。だが、実のところそれは、かなりの猫を被っているからに他ならないと知った。上手く周囲を欺いているけれど、細やかなようで居て無頓着、優しいフリをして結構腹黒、だが時々不思議なほど真剣にすっとぼけていたりするのが、渋沢という人物らしい。
(見た目通りじゃねぇ、っつーことだよな)
初めてドラマで共演して、親しくなって。そんなヤツが、自分のことを好きだなんて言うから、初めて聞いた時は心底驚いた。からかわれているのだと思って突っ撥ねたけれど、結局は、自分もあいつが好きなのだと自覚させられてしまって。気がつけばいわゆるところの「恋人同士」というモノになっていた。
「そっか、イメージな…」
聡い相棒に、それを気づかれていると知ったのはついこの間。その時は、さすがにとてつもなく動揺した。しかし、相棒はまるで当然のことであるかのように、三上と渋沢との仲を認めているらしい。
(それはそれで、どうかと思うんだけどさ)
とは言え、数少ない大事な友人に否定されるのはツライ。
むしろ応援してるだなんて言われたひには、さすがの三上もげんなりしてしまったが。
それでも、ありがたいという気持ちは消えない。
おかげで、大切な友で同じフィールドでの最大のライバルと、かけがえない相手で違うフィールドでの最大のライバルを同時になくさずに済んだ。その両方を手に入れる事が出来た幸運には、いくら感謝しても足りない。
(いや、)
もちろん、「運」だけではない。
それぞれが、最大限の努力を積み重ねて来た結果でもある。だが、決してそれだけでは測れない、目に見えない力が、この世界での出会いや縁や成功を左右する部分もあるのだ。ラッキーを掴み取るには、相応の力もなくてはならない。でなければ、せっかく掴んだものを生かすことが出来ないままに終わる。努力は、「運を手に入れやすくするため、そしてそれを生かせる力をつけるため」と言い換えてもいいかもしれない。
そんなことは、分かっているから。
この出会いさえも、お互いにとって最高の運命を呼び込めばいいのにと思う。
出会えたことに感謝して、気づけたことに感謝して。
手に入れるためにして来た努力も、いずれは互いの糧になるから。
「まぁ、自分で選んだんだからそれにすりゃいいじゃん。『引越し祝い』なんだろ? だったら、そんなにこだわらなくても」
やたら「引越し祝い」という単語を、中西は強調した。どうやら、『そんなことを言って、本当はやっぱり誕生祝いなんだろ?』とでも言いたいらしい。だが、三上にとってはあくまでこれは引越し祝い。どう間違っても、誕生祝いなどではない。
「…そ…だよな」
下手にこだわりを見せると、さらに勘繰られるかもしれない。そう思って、さっさとその話題を打ち切ることにした。
「とりあえず、コレにしとく」
三上の誕生日の時は、三上自身が写真集の撮影で海外だった。渋沢からはメッセージカードが届いていたけれど、タイミングを逃して礼を言いそびれた。だから本当は、祝いの言葉くらいは言ってやりたいのだけれど。
つき合い始めて八ヶ月、互いの仕事が忙しくて、直接顔を合わせることはまだ少なくて。そんな風にあらたまられると、どうにも落ち着かないのだ。
(ったくよ)
我ながら、子供みたいな恋をしていると思う。
三上は今年で19、渋沢に至っては24になるというのに。まるで小学生や中学生のように、笑ってしまうくらい歩みの鈍い仲である。何度か身体を重ねたことさえある。なのに、いつまで経っても「恋人同士」という実感が湧かない。
(…でもな)
どちらかと言えば、三上にはその方がありがたいのも確か。あまり一気に深みにハマって、これ以上振り回されるのは困る。この期に及んでそんなことを考えているあたり、終わっているような気がしなくもないけれど。
(今でも、充分振り回されてる気ぃすっけどさ)
あいつばかりが余裕の素振りで、それが気に食わなくもあり。それでも一緒に過ごす時間を大切だと思うくらいには、すでに深みにハマっている。
(要はさ、あいつをオレが振り回せばいいんだよな)
そうは思ってみても、つい、相手の立場を考慮してしまう。自分と似たようなものだから、なおさらなのかもしれない。
(…どーすんだか)
自分も、渋沢も。
ゆっくり歩いていられるほど、呑気な世界に生きているのではない。いや、もしかすると、だからこそ他にはありえないゆるやかなペースを望んでしまうのかもしれなかった。
「じゃ、まぁ渋沢によろしくな」
心の中でため息をつけば、中西の言葉に意識が引き戻される。いつの間にか、考えに沈みこんでいたらしい。
「ああ、分かった」
訝しげな顔をした相棒に頷きを返し、三上は目的の物を手にレジへと向かった。
◆
「いい香りだと思ったら、三上の香りなんだな」
いきなりそう言われて、死ぬほど脱力した。
(……こいつだけは…)
気障な台詞は中西で慣れているはずなのに、それが自分に向かって言われているのと、そうでないのとでは、破壊力が段違いだということに初めて気付いた。
「まーな、この香り結構好きって言ってただろ」
だが、こんなことでへこたれていると思われるのは悔しい。動揺を隠して、事も無げに三上はそう返した。
「ルームフレグランスか。洒落てるな」
「引越し祝いってコトで」
しげしげとガラス瓶を眺める渋沢をよそに、ソファに腰を下ろす。新しい部屋もすっきりと片付いていて、いかにも渋沢らしい。
(まぁ、この様子じゃ、誕生日プレゼントがどうとか言われなくても済みそうだな)
気にはしているかもしれないが、それ以上に気遣われることを厭うだろう。日頃世話になっている礼に、プレゼントをやることについてはやぶさかではない。だが、誕生日だとかクリスマスだとか、いかにも「付き合っています」的なアニバーサリーというのが三上は苦手なのだ。この分なら、引越し話に終始して、それ以外の話は上手く流れるだろう。コーヒーでも入れよう、という言葉に頷けば、部屋の主は軽快にキッチンへと向かう。
「あまり客は来ないんだ、間に合わせで悪いけど」
ぼんやり部屋を見回していたら、カップを乗せたトレイを手に渋沢が戻って来た。自分用には少しだけミルクを、三上の分はブラックで。しばらく一緒に居れば、自然、好みも把握する。三上自身も、決して気が利かない方ではないと思うのだが、いかんせん相手がマメすぎる。いつも絶妙な感じで、気を遣われることに慣れてしまいそうなのが怖い。とは言え、どうすれば渋沢を出し抜けるのかなんて、考えるだけ無駄な気がして来るのだ。
(つってもなぁ…)
渡されたカップの中味は、香りからするとインスタントコーヒーなのだろう。しかし、味の方は「インスタントで出せる最高の部類」に入ると思えた。こういう芸当が出来るヤツはそうそう居ない。
そんなことすら、感嘆すると同時にムカついて。
すべてに先回りされて、居心地のいい空間を用意されているようで、それが悔しくて。
(どうすりゃいいんだろな)
焦茶色の液体をぼんやり眺めて、コーヒーの匂いを肺いっぱいに吸い込む。客が来ないと言いつつ、カップとソーサーはおそらく高級品。どこかよそよそしい感じがして、それも三上の神経を逆なでする。
(…ああ、けど)
どうにか思考をプラスに持って行こうと、あえて関係ないことばかりを考えようとした。
(そういや、コイツは自分でコロンとかつけないんだな)
何だかんだ言って、身だしなみは気にしている風である。けれど、三上の香りが好きだとか、和風の香りは好きではないとか言うクセに、自分では何もつけていないのが不思議だ。
「なぁ、おまえって自分じゃコロンとかつけねぇのな」
だから、何気なくそんなことを訊いてみたりして。
「ああ、あんまりそういう気になれなくて」
渋沢は、苦笑いのような表情を浮かべて応える。面倒だということだろうか。
「ふーん…他人のは気になるけど、自分は好きじゃねぇってか」
そういうヤツもたまには居る。三上としてはその程度のつもりで、ちょっと意地の悪いことを言ってやりたかっただけなのだ。まさか、破壊力が倍増しになった言葉で攻撃されるとは、思ってもみなかった。
「気になるのは三上のだけだぞ?」
「…――」
しれっとした顔で、そんなことを言われては。
言葉を失って声を詰まらせた三上に、追い討ちをかけるひとこと。
「だって、自分でつけてると、三上を抱きしめた時に三上の香りがわからないじゃないか」
「…――」
思わずソファに懐きたくなったとして、誰が責められるだろうか。
(いや、ここで挫けてちゃ、いつまでもコイツのペースだ…)
付き合うからには対等で居たい。好きだからこそ、負けたくない。そんな恥ずかしいことを本人に言ってやるつもりはないけれど、渋沢に「してやられる」たびにそう思うのだ。
だから、精一杯の虚勢を張って、平気なフリをする。一瞬、抱きしめられた時の事を思い出してドキリとしてしまったなんて、絶対に悟られてはならない。
「…オレには、そういう楽しみを味わわせてくれねぇんだ?」
ずい、と乗り出して誘うように。
渋沢の頬がわずかに動いて、動揺したのが分かる。
(へへん、ざまーみろ)
レンアイにだって、勝負がある。いつも負けてばかりなのは、どうしても自分が許せない。
(それにさ)
やっぱり、いつもとは違った顔が見たいのだ。他の誰の前でも見せない、何かを演じているのではない、ただの渋沢の素顔が。
「三上…」
渋沢が、息を飲んだのが分かった。
掠れた声が、囁く。
伸びて来た腕に手首を掴まれて、軽く引き寄せられる。
それでも、強引な拘束ではない。思いが通じ合っていなかった頃のように、力に任せて押し切ろうとされるのもムカつくけれど。
(なんだよ)
湧き上がる衝動を、理性で抑えようとしているのが透けて見える。
その方が、より一層ムカつくということを自覚した。
「来週、誕生日なんだろ? オレとお揃いのヤツ、おまえにやろうか?」
つい口走ってしまったのは、ほんのイキオイ。
「え」
もっと動揺させてみたい、と思ったからだ。
「だったら、いつでもオレの香りに触れてられるぜ?」
本当は、誕生日の話なんて出すつもりじゃなくて。
ましてや、自分と同じコロンを贈るなんて、冷静に考えれば「冗談じゃない」とツッコみたくなるような提案なのに。
(ああもう、何言ってンだよ、オレはっ)
取り戻そうとしても、発してしまった言葉は戻せない。一気に妖しげなムードになってしまったのを振り払いたくて、だが、どこか切羽詰った様子の渋沢が、いい気味だとも思えて。口が滑ったというのは自分でも分かっているのに、取り消すような台詞を言いたいとも思えなかった。
(やべぇ、毒されてる)
いつの間にか、この男のせいで、感覚が麻痺してしまったのだろうか。切なげなまなざしを見返すと、妙な優越感まで感じる始末で。自分より渋沢の方が余裕がないのだ――そう思うことは、三上にはひどく甘い感覚だった。
「せっかくのありがたい申し出なんだが」
困ったように、眉をひそめる渋沢。こんな姿は、あまり目に出来るものでもない。
「…なんだよ」
「出来れば、その…違うものの方が」
しかし、ためらいがちに続けられた言葉に三上は目をみはる。その内容もともかく、いつになく気弱げな渋沢が、告白されたあの頃を思い出させて、何とはなしに懐かしく感じたりもして。
「なに? オレのプレゼント要らねぇってワケ?」
たまにはこんな渋沢もいい。そう思ったらついつい、また意地の悪いことを言ってしまった。
「そうじゃなくて」
「だったら何だよ」
「『これ』だったらともかく、三上の居ない時に、三上の香りそのものを近くに感じるのは切ないよ」
言いながら、ガラスのローテーブルに置いた「引越し祝い」を指し示す。
「切ない、って…」
実はちょっと、「ハァ?」と思わなかったと言えば嘘になる。何をそこまで大げさに、と言ってやろうかとも思った。
だが、覗き込んだ薄茶の瞳に浮かんでいたのは、軽くあしらえるような色ではなくて。
あまつさえ、そこに映った自分の表情が、渋沢のそれと似ているようにさえ思えて。
視線に込められた、複雑な想いを悟る。
(…一緒かよ)
もどかしくて、けれどそのことに少し安心もしている。
一歩を踏み出すのが怖いのだ。
そのくせ、今の状況では満足できない。もっと相手に自分を求めさせたい。この、微妙なバランスを崩したいと心の底では望んでいるのだ。
どっちが勝っている訳でもない。
勝負は今、五分と五分。
それが分かったから。
ためらいも、戸惑いも捨てることにした。
「しょーがねぇな。じゃあそれで我慢してろよ」
ほのかに海の匂いをたたえたグラスは、人工の灯りの下できらきらときらめく。青いまがいものの輝石を目の端でとらえて、三上は、掴まれた手を逆に引っ張り返した。
「三上?」
訝しげな渋沢を、抱き寄せる。
ああもう、しょうがないなぁ、と自分に呆れて。
「オレ専用のコーヒーカップでも、買ってやるよ」
「…なに?」
「それ、おまえの誕生日にやるから、ここに置いとけ」
いつ来ても、「来客用」のではないカップがあるように。
お互いの生きるフィールドがあって、お互いの暮らしがあって、それでも、それを少しずつ重ね合わせて行くのだと。
たとえ渋沢が何と言おうと、ここに勝手に自分の居場所を作ってやるのだと。
そのつもりの、プレゼント。
けれど、あくまで素直には口にしない。
「いいのか?」
わずかに笑みを含んだ声で、渋沢が問うた。聡い男は、その贈り物に込められた意味を、過不足なく汲み取っていやがるらしい。
(そーういトコがムカつくんだよ…)
急に嬉しそうになった顔をぺしりとはたいて、その頬に軽く唇を押し当てた。要らぬところで鋭いのは、どうにも腹立たしい。もう少し弱気な方が可愛いのに、などと考えてしまってから、そんな自分にもうんざりする。
「野暮なこと訊くんじゃねーよ」
「そうか」
「ニヤけてんじゃねぇ」
「これが地なんだ」
にこにこというかデレデレというか――締まりのない顔を見やり、三上は内心で大きくため息をついた。
(舞台の上とは大違いだよな…詐欺だぜ…)
やっぱり、「あの時」こいつをカッコいい、と思ってしまったのは錯覚かもしれない。そんなバカげた言葉を、頭の中で繰り返して。
「せいぜい、旨いコーヒーの淹れ方でも練習すんだな」
本当は、今でも充分に旨いけれど。無闇に誉めれば、この男をつけ上がらせてしまいそうな気がするから。
「三上と夜明けのコーヒーを飲めるように、頑張るよ」
(――…)
更に恥ずかしい台詞を吐かれて、ソファに押し倒されて。
逃げようと思うより先に、手を差し伸べてしまったのは不覚と言うべきか。
「オレは別に『夜更けのコーヒー』でもいいぜ?」
それでも負けたくなくて、口の端で笑えば、やにさがった笑顔が返された。
「じゃあ、今夜これからでも」
跳ね上がる鼓動は、押し隠して。
気取られてしまっているかもしれなくても、気にしないフリをして。
「期待しとくぜ」
重ねられる唇に、唇を軽く開いて応える。
どちらのものとも知れない吐息が、甘く静寂を震わせた。
――勝負は、まだこれから。
Das Ende
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